今日6月23日は、僕の父方のおばあちゃんの命日です。
亡くなったのは2005年なので、もう11年も前のこと。あの世での生活がすっかり長くなってしまったけど、元気にやってるのかな。
今回は、そんなおばあちゃんのことを、ちょっと思い出してみたいと思います。
終戦11ヶ月前に、長男(僕の父)を産んだおばあちゃん
僕のおばあちゃんは、泉州と呼ばれる大阪南部の岸和田市で生まれ、生涯をそこで過ごしました。漁港がある海沿いで、当時その地域は泉南郡春木町と呼ばれていて、戦時中の1942年に岸和田市と合併しました。
おばあちゃんは、うちの北野家の直系で、おじいちゃんは婿養子です。おなじ岸和田市の山の方からやってきました。年齢差は、おじいちゃんの方が10歳近く年上だったと思います。結婚後、すぐにおじいちゃんは戦地へと出征し、岸和田で家を守るおばあちゃんは、戦火が激しくなってきた1944年9月に長男を産みました。その子が、後の僕の父親です。
終戦まであと11ヶ月という、非常に過酷な時期に赤ちゃんを産み、育てたのです。当時のことは、僕はよく知りません。現代とはまったく違うであろう子育て事情だったでしょう。今思えば、その頃の話を、しっかり聞いておけばよかったと悔やまれます。
厳しい時代を生き抜いてきたはずだけど、とっても穏やかなおばあちゃん
僕は、とてもおばあちゃん・おじいちゃんっ子です。同居ではありませんが、子供の足でも歩いて2〜3分で行けるごく近所に住んでいたので、かなり頻繁に行っていました。はっきりとは覚えていないのですが、10歳くらいまでは毎日行っていたのではないでしょうか。
そんなおばあちゃんとおじいちゃんは、自宅兼店舗の薬屋さんを営んでいました。おばあちゃんの父親が始めたお店だそうで、おばあちゃんが子供の頃は、住み込みで働いている若者が何人もいたそうです。丸に「キ」と書かれたハッピを着て、町中を御用聞きに回っていたんだとか。
僕の記憶にある子供の頃のお店は、町にある小さな薬店です。今のような大型ドラッグストア店が流行る前なので、小さいながらもそれなりに繁盛していて、朝から夕方の閉店まで、毎日忙しそうでした。
さて、戦時中に第一子を産み、戦争を生き抜き、自営の商売を守り抜いてきたおばあちゃん。ここまでの話を聞けば、「さぞ厳しい女性だったのでは?」と思うじゃないですか。それが僕の記憶では、とても優しい印象しかないのです。
僕、僕の妹、そしていとこ達が頻繁に集合し、おばあちゃんに遊んでもらいました。「はい、かけっこ!」「ストップ!」「逆回転〜」と、おばあちゃんの合図に合わせて家の中を走り回るのが楽しくて、おばあちゃんは保育園の先生のような存在でもありました。
また、おばあちゃんはプロ野球の巨人のファンで、巨人が勝っているときは、とても嬉しそうでした。ただ、大阪という土地柄ですので、巨人ファンというのを大っぴらに口外する訳にはいかず、密かに巨人を応援しているようすは子供の僕から見てもとても可愛らしかったです。
おばあちゃんとのエピソードは他にもたくさんあり、ふと思い出すそのイメージは、穏やかにニコニコしているようす。時に、お客さんへのサービス(オマケや割引)が旺盛過ぎるおじいちゃんに対して、「そんなことしてたら儲かれへん!」と怒っていることもありましたが、僕たち孫に対しては、いつも優しかったです。
痴呆症になり、自宅で介護されるおばあちゃん
僕が20歳を過ぎた頃だったかな、「おばあちゃんの様子がおかしい」と僕の両親が話していました。お店の帳簿はおばあちゃんが付けていたのですが、その数字に度々間違いが発生していたようなのです。その後、おばあちゃんの様子は、僕が見ても変だなと思うようになりました。穏やかだったおばあちゃんが怒りっぽくなったり、何もいないのに「蟻が大量に這っている」と幻覚を見るようになったり。
そのとき、僕は初めて目の当たりにしたのですが、おばあちゃんは痴呆症になってしまったのです。
おばあちゃんはみるみる悪くなり、そのうち寝たきりになりました。会話もできなくなり、ただただ寝ているだけです。病院や施設には入らず、自宅で介護をしていました。僕の両親や、親戚のおじさん、おばさん達が、おばあちゃんにスプーンで食事をあげたり、オムツを替えてあげたり、身体をしぼったタオルで拭いてあげたりしていました。
僕はそこでさらに、介護の大変さも目の当たりにすることになったのです。
そんな日々が8年ほども続き、11年前の今朝、おばあちゃんは自宅のベッドで息をひきとったのです。前夜、いつもどおり眠って、そのままろうそくの火が尽きるように、灯し火が小さくなり、ふっと命が尽きたのです。
その10ヶ月後、元気だったおじいちゃんがおばあちゃんの元へ
おじいちゃんは、寝たきりで会話もできないおばあちゃんに向かって、「今日は顔色ええな〜。元気か、おばあちゃん!」など、よく声をかけていました。
こんなことを言うと不謹慎ですが、僕はおばあちゃんの介護に疲弊する両親の姿を見ていたので、おばあちゃんが命を全うし終えたことに対して、ホッとした気持ちもありました。これで、父がおばあちゃんのそばで付き添って寝ることもなくなる、母が重いおばあちゃんの身体を支えてオムツを替える苦労もなくなる、と。
でも、おじいちゃんは、おばあちゃんが大好きだったんですね。
おばあちゃんのお葬式で、おじいちゃんはとても悲しそうでした。おばあちゃんの葬儀が終わってひと段落ついた頃、今度はおじいちゃんが段々と弱って行きました。ベッドの上で過ごす時間が長くなり、以前のような覇気もありません。
おばあちゃんが亡くなってから9ヶ月が経った頃、おじいちゃんは風邪をひきました。
ただの風邪だと思ったのですが、おじいちゃんは「もうわしアカンから」と僕たちに話してくれました。それから、わずか1週間ほどで、おじいちゃんはゆっくりと息をひきとったのです。
2006年4月8日、満開の桜並木を通り抜けて火葬場へ向かう道中、僕はおじいちゃんとおばあちゃんに可愛がってもらってきたこれまでの思い出が溢れでて、抑えきれず号泣してしまいました。僕は物心ついた頃から泣いたことがなく、僕は泣かない人なんだと思っていたので、自分自身に起きた反応に驚きました。
僕は、おばあちゃんとおじいちゃんを通じて、孫への優しさ、介護の大変さ、人の命、夫婦の愛など、様々なことを学びました。死とは、永遠の別れですので悲しいものではありますが、こうやって想いは伝わって行くんだな、と気づきました。
おばあちゃんとおじいちゃんが僕に渡してくれた、優しくてあたたかなバトンは、今度は息子へゆっくりと手渡して行きたいと思います。